西の横綱「野間の大ケヤキ」と「蟻無宮」(大阪府豊能郡能勢町野間稲地)

樹  高 27.37m
幹  周 13.01m(西日本最大)
樹  齢 約1,000年
枝  張 39.3メートル×36.2メートル(「けやき資料館」による)
撮  影 H13年5月
国天然記念物


 この木は西日本で一番大きいといわれているケヤキの大木である。全国のケヤキの巨木ランキングの幾本かは息も絶え絶えなことを考えると、元気な木としては東の横綱「東根の大ケヤキ」(山形)や、「三恵の大ケヤキ」(山梨県)に次ぐものと思われる。大阪の全樹種の中でも2番めの大きさらしい。
 驚くのはその枝張りの範囲で、「人里の巨人たち」によると1,023平米は、620畳敷に匹敵するそうである。
 国道447号のバイパスが通る以前から、花折街道(能勢街道)を旅して、このケヤキの木陰で涼をとった人の数はいったいどれほどになるのだろう。

 車で豊中・池田から猪名川に沿って能勢街道を北上して気づくのは、すぐに兵庫県の川西市になり、2kmほどで大阪府豊能郡になり、1.5kmほどで大ケヤキがあり、また5.5kmほど進むと京都府亀岡市に入ってしまうということだ。
 つまり、兵庫県の東の端と京都の西の端に、大阪府の豊能郡(豊能町と能勢町)がくい込んでいるのである。

 ここは平安時代の末期に源氏が栄えたところだ。
 10kmほど南には多田の庄(兵庫県川西市)があり、そこには武家の源氏三社のひとつ「多田院(多田神社)」がある。
 源満仲を祖とする摂津源氏(多田源氏)が居を構えた地で、長男の源頼光頼光四天王渡辺綱 坂田金時卜部季武碓井貞光)と共に大江山の酒天童子を退治したことで有名である。
 また、三男の源頼信は河内国の壺井庄(現・大阪府羽曳野市壺井)に進出し、河内源氏の祖となった。
 この頼信の子と孫が奥州の後三年の役前九年の役で勇名をとどろかせた源頼義義家(八幡太郎)で、その子孫に源頼朝が出ることで、武士による支配の時代が幕を開けるのである。

 頼光四天王の渡辺綱は、嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルといわれる源融(とおる)を祖とする嵯峨源氏で、渡辺さんの始祖である。
 一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたなど、妖怪退治の逸話で知られている。
 その一族、渡辺党が大阪の渡辺津(天満橋付近)に拠点をおいて栄えたことから、源氏が京都と難波(大阪)、丹波と瀬戸内海を結ぶ北摂(大阪府北部)を抑えることで、淀川(大川)の水運にも支配介入したことがうかがえる。渡辺氏から、後の松浦水軍の松浦氏が出たこともこのことと無関係ではないだろう。
  
 ここにあったという「蟻無宮(ありなしのみや)」は「野間神社」に遷したとあるが、現在も「蟻無神社」が残されていた。昔、神道集で読んだ「蟻通明神」と関係があるのだろうか。

 この大ケヤキの寿命が、資料館にあるとおりの1,000年だとすると、実に藤原道長の時代となり、それはさすがにないかもしれないが、この木が街道を馬で駆け抜ける鎧武者たちを見てきたことは間違いない。
 もしも彼女が言葉を話せたら、どんな歴史を語り出すのだろうかと思いを馳せずにはいられない。


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